手仕事民芸境界性

メンタルヘルスをメンヘラは捉えられ方が違う。ある種の事故だ。人の性格も民藝もデザイナーズも、境界性的な側面があるものだ。

己の常識でしか物を見れない人間は起業も経営も鬱もメンヘラも語れない

ポジティブ、アクティブ、独立、慈愛、快活、"そう! 生き生き!"、カッコいい。 ネガティブ、ヒッキー、雇われ、妬み、メンヘラ、"そう! ジメジメ!"、カッコ悪い。

カッケー!ダセー! むぅ、どっちもつまりは "やばい" ってことかな。

本人たちがそう思うのはまぁいいでしょう。 仕方ないでしょう。

まぁカッコいいと思う側は、それを自分で言わなきゃ、あるいは暗示しなきゃカッコいいでしょう。

カッコ悪いと思う側は、少なからずなんとかしないととか、助けて欲しいと切に願っている事だと思います。 じゃないとカッコ悪いと思っている事がファッションになりません。 ファッション100%の人はカッコ悪いでしょうし、なんとかしないとって思う人はカッコ悪くはないでしょう。

で、これって何なのか? 何がやばいのか。

ベンチャースピリットとかの話ではないが、私たちは小さな常識の中で生きている。 大多数の共通認識の中で生きている。

変わった事をすると避けられ、馬鹿にされ、蔑まれる。

でも、この常識が、成長を促さないものだったら...?

大多数の共通認識を変えることが、何かをよくすることだってある。 それを訴え続けて、共通認識を覆すことの良さたるを証明した人は、革命家だと賞賛される。 そうして新しい共通認識が生まれ、それが常識になる。 これは、人類の進化の過程で度々行われてきたことだと思う。

さて、心が病んでると言われる人は、この大多数に打ちのめされる。 打ちのめす方は、"だってそれは違うもの、おかしいもの、異常だもの、病だもの"って。

ちょっと待ってほしい。この現象を大きくすると、戦争になるのではないか。 こうなると、何が正しいのか分からなくなるのでは。

だって、話を戻すと、ベンチャースピリットを持った人たちは、もちろんあらゆる批判や蔑みを受けることもあるだろうけど、ある種の革命家として捉えられることもある。

打ち勝つ事で賞賛される事もある。 たとえ失敗しても、過程を、志を評価される事もある(失敗の歴史や事実を飯のタネ "メシウマとして…" にあざ笑う人間もいるのも事実で、それは残念だが)。

でも一方で、病んでいる人(ここではメンヘラあるいはメンヘラの部類とする)は、そうはならない。そうはならない事が多いように思う。 そうなってしまったという事や、そうであるという事が、嘲笑されたり、批判されたり、酒の肴にされたり、さらには悪と見なされる事もある。 これはこれでメシウマになるのかな。

実際に私もそういう人を見てきたし、会ってきた。

"ワタシの知り合いにメンヘラがいる" と言い、その子がサインバルタという抗うつ剤SNSに上げている写真を見ながら笑っている人を知っている。

素敵な方だなぁ、周りをしっかり見ていて、配慮していて、仕事もできて。 そんな人が、リストカットをする人を社会の迷惑だと言う人もいた。

そもそもそういう人たちにも軽い気持ちで、つまりファッションとしてやっている人もいるのは事実だと思う。 程度の幅がある。

それはそれでどうなのかと言う気持ちもあるが、その気持ちは分からなくはない。 面白半分、見てもらいたい半分の人もいれば、限界の玄関に立っている人もいるし、どうしようもなく彷徨っている人もいる。程度の差が広いのだ。

さて、ポジティブな革命家を前者としよう。ネガティブな革命家を後者としよう。

前者が信念を貫き通すと、賞賛されると言う話に戻すと、後者が、、信念というか、ここでは心の在り方になるが、それを貫き通す、つまり、そういう状況に深く入っていってしまうと、それは賞賛されるのだろうか。

もちろん、頑張っている、苦しんでいる、戦っていると理解を示す人もいるだろうが、それは多くはないだろうと思う。なぜならそうではない人にとって(そしてそうである人にとってもかも知れないが)、それは負の評価であるからだ。

そもそもがネガティブな事であるからだと思う。

前者も後者も戦っているんだよね。

戦争もそうなのではないだろうか。敵も味方も戦っている。己の常識が正として。

それはつまり私たちは、私たちの常識で生きているからじゃないだろうか。

小さな口論だってそうだ。 同じ組織であっても、家族であっても、恋人であっても、そうだ。 意見の衝突は、個の常識のぶつかり合いから生まれる。

そのぶつかり合いの中で、各々が正しさを認めさせたいと思い、その手段として話し合いがあり、口論があり、暴力があり、殺し合いや粛清がある。

なんだろなー。

負の生き物が、人類の成長を促さない生き物なのか。 そんなことはないはずだ。

それがすべての答えとは言えないが、 成長、つまり、人のあるべき姿の気づきにはなっているんだよ。